先週、初めて短歌に触れて、ああ面白いなあと思った感覚が残っていて、昨日は仕事の帰りに寄った丸の内の丸善で歌集を買ってきました。影響されやすい性格です。

『たべるのがおそい』での短歌との出会いはちょっとした驚きでした。
私が短歌について知っていることといえば、石川啄木、サラダ記念日、三十一文字、の3つくらいしかありません。正統派の短歌は難しく、いまどきの短歌は薄っぺらい、というまったく根拠の無い印象をもっていました。というかそもそも無関心でした。
でも『たべるのがおそい』に載っていた短歌は難解でも軽薄でもなかった。パーンとはじける感性の花火を真下から眺めているような気がしました。(打ち上げ花火を近くで見ると火のついた破片が飛んできてものすごく危険なの、知ってました?)

雨の夜はスローモーション かみなりがロープにみえる にぎる し びれる ・・・・・・木下龍也
これは『たべるのがおそい』の中で一番好きな短歌ですが、出だしの「雨の夜はスローモーション」ってまるで80年代の歌謡曲みたいじゃないですか。ちょっと恥ずかしいし、いくらか引いてしまう。ところがその次には「かみなりがロープにみえる」と。暗い空から1本のロープがバッと投げつけられる。当然、握りますよね。そうしたらシビれた。「しびれるー」じゃなくて「し びれる」の方が、シビれてる感じがします。感電すると骸骨が透けてビリビリ震える、漫画みたいな。この、80年代歌謡曲から始まってハードロック、最後はコミックソングという感じがとてもいい。比喩としてのシビれじゃなくて、肉体的な感覚としてのシビれ、正座とか静電気程度じゃなく、もっとこう体の芯まで震えるようなシビれというのは滅多にないことだけれど、まず思い出すのは品川駅前の国道一号に架かる歩道橋の上で好きな男の人に好きと言われて小鳥みたいなキスをしたことかな。ずいぶん昔の話だけどあれはシビれました。それから、横浜アリーナのU2のコンサートでBonoの第一声が流れてきたとき。泣きながらシビれました。シビれるって幸福なことだと思います。
話を短歌に戻すと、雷が鳴るほどの雨、土砂降りの嵐の中に傘もささず一人でいるからには、きっと悲しいことや悔しいことがあったに違いありません。もしかしたら雨に隠れて泣いているかもしれない。だんだんと思考がぼやけ視界がスローモーションになる。私もうだめかも。そこへ暗い空から輝くロープが下りてくる。おもわず、手を伸ばして握りしめる。しかし雷のロープは私を引き上げてはくれず、シビレだけを残して消える。辛くても自力で這い上がるしかないと私は気付く。
人間は、全力で愛したり命がけで憎んだり、おとなしそうにみえる人も情熱を持っていて、数え切れないくらいの恥や挫折や絶望から何度でも立ち上がらなければなりません。それをシビれると表現したこの歌はすごくかっこいいと思います。

丸善の歌集の棚は、隣にある俳句の棚の半分以下のスペースだったけれど、歌人の名前をほとんど知らない私にはどれから手に取ればいいのか見当もつきません。だから『たべるのがおそい』で知った服部真里子の歌集『行け広野へと』を見つけたときにはほっとしました。
復讐を遂げていっそう輝けるわたしの幻ののどぼとけ ・・・・・・服部真里子
しなやかに戦う人、孤独を受けとめる人が好きです。この歌から、服部さんはそんな人なんじゃないかと想像していました。昨晩から今日にかけて『行け広野へと』を何度も開いたり閉じたりしながら過ごし、私の想像は外れていなかったと確信しています。以下は『行け広野へと』から。

蜂蜜はパンの起伏を流れゆき飼い主よりも疾く老いる犬
泣ける
野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
広野へと降りて私もまた広野滑走路には風が止まない
頑張る
海を見よ その平らかさたよりなさ 僕はかたちを持ってしまった
地表とはさびしいところ擦っても擦っても表だけだ、と風が
ゾクゾクする
人の手を払って降りる踊り場はこんなにも明るい展翅板
大好き
海蛇が海の深みをゆくように オレンジが夜売られるように
イメージが好き
陶製のソープディッシュに湯は流れもう祈らない数々のこと
お風呂ってそういう場所ね

気に入った歌は他にもたくさんあります。『湖と引力』という連なんかはまるまる引用したいくらいです。
それにしても、一瞬の情景をとらえたたった一行の歌からこんなにも広い景色や深い思索が得られるものとは思ってもいませんでした。